どうせ食べるならおいしいカレーを

こんにちは!円アカです!

 

皆さんはどのような勉強の仕方をしていますか。

 

今回はそのヒントになるお話をしたいと思います。

 

円アカくんのお母さんが「円アカー!お昼ご飯出来ましたよー!」と呼びました。円アカくんはお腹が空いていたので、楽しみにテーブルに座って、「いただきまーす!」とお昼ご飯のカレーを食べようとカレーに入っているジャガイモをスプーンで切って食べようとしたところ硬くて切れません。

 

よく見るとカレーに入っている肉は生煮え、野菜も全然煮えておらずに硬いままです。お母さんが「私、料理してカレー作ったわよ。どうおいしい?」と聞いてきます。そのとき、円アカ君はどう思うでしょうか。円アカ君は「確かに料理をしたかもしれないけど、肉はまだ煮えていないし、野菜もまだ煮込まないと硬くて食べられない・・・。」と思うのではないかなと思います。

 

どうせ食べるなら、しっかり煮込んだおいしいカレーを食べたいと誰しもが思うのではないかと思います。そして、しっかり煮込むところまでやって料理をしたとなるのではないでしょうか。これは勉強でも同じことが言えます。まず、問題を解いて赤で答えを書いて勉強をしたと思っている人がいます。これは勉強したことになるでしょうか。残念ながらなりません。料理で言えば、下ごしらえをしたに過ぎません。勉強は出来ないところを出来るようにすることです。つまり、間違えたところを次に出てきたときに言い回しなどを変えられても出来るようにするのが勉強です。赤で答えを書いて解説を読み理解をして、時間を空けてもう一度自分一人で解けるかどうかの確認をしてまでが勉強です。

 

次に長い時間椅子に座って問題集を開いていたら勉強をしたと思っている人がいます。これはどうでしょうか。さっきのカレーで置き換えてみましょう。「円アカ、何で食べないの?お母さん、長い時間かけたわよ・・・。」このとき円アカくんは「いやー、長い時間かけたかもしれないけどちゃんと出来てないじゃん・・・。」と思うのではないかと思います。勉強も同じですよね。どんなに長い時間をかけても、ダラダラやってみたり、身に付ける気がなければ、勉強したことにはなりません。「どうせ料理をするならおいしく、どうせ勉強をするならテストで点数が取れる」、これが非常に重要なのではないでしょうか。

 

ただこういったことに気付くためには、「本人の心の成長」が必要不可欠です。前にもお話をしましたが、小学生にわかることが中学生にわからないこともあります。講師側は、身に付ける勉強を出来るようになることを目標にやっていきます。出来ていない人がいれば、もちろん最初は易しく諭すように話します。しかし、アドバイスを守ろうとしない人には、回数を重ねていけば、少しずつ話す内容は厳しい内容に変わっていくのは当然です。勉強には「期限・期日」があります。そのときに優しく話されているときは何も印象に残らずに、だんだん厳しい言葉に変わってきたときに、きつく言われたところだけ部分的に印象に残り、「不平・不満」にしかならない中学生も残念ながらいますし、なぜ言われたのかなどの「話の流れや理由の一番重要なところ」を中学生にもなって考えられない人もいます。これは学力的なものではなく、「心の成熟度」が原因です。「先を見通すための心の成熟度」、「出来るようになりたいという向上心」が必要です。

 

心を成熟させていくために、自分の友達が自分とまったく同じ出来事を体験している状況(勉強を中途半端にしている)を想像してみるといいかもしれません。「例えば、〇〇ちゃんに同じことが起きたらどう思うかな?」など、身近な友人を選ぶと気持ちを想像しやすいかもしれません。「そのときに、どんなアドバイスをしてあげる?」など、友達をサポートする気持ちで自分の心と対話してみましょう。ひとしきりその話をしてから、「じゃあ、〇〇ちゃんが同じふうに言ってくれたら、どう思うかな?」など、今度は自分の気持ちに置き換えるように練習すると、今の自分の客観的な姿が見えてきて、今、自分がどういう風にしなければならないかわかってくるかもしれません。